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2026年01月11日 (日)
- 一目逢いたかった。僕も民さんに逢いたかったもの、民さんだって僕に逢いたかったに違いない。無理無理に強られたとはいえ、嫁にいっては僕に合わせる顔がないと思ったに違いない。思えばそれが愍然でならない。(伊藤左千夫 (2025)『野菊の墓 他七篇』東京: 岩波書店, p. 62.)
- 幽明遥けく隔つとも僕の心は一日も民子の上を去らぬ。(伊藤左千夫 (2025)『野菊の墓 他七篇』東京: 岩波書店, p. 70.)
- しかも互いに妻子を持てる一ぱしの人間であるのに、磊落といえば磊落ともいえるが、岡村は決して磊落な質の男ではない。(伊藤左千夫 (2025)『野菊の墓 他七篇』東京: 岩波書店, p. 75.)
- 児供達は何を見つけたかしきりに面白がって笑い興じている、その笑声は真に晴れ晴れしく活々として、何ともいいようなく愉快そうな声である、そうしてその声は慥かに人を闇黒より呼返す声である、(伊藤左千夫 (2025)『野菊の墓 他七篇』東京: 岩波書店, p. 98.)
- スパルテホルツの解剖図とラウベルの解剖学とを買う考で、本屋の前まで来ると学生が五、六人もいてあまり賑かだから、そこに這いるのが厭でしばらくあたりをうろついている間に、了簡が変り上野にいって、博物館を見たり、動物園を見たり、理窟もなく遊んでしまった日もある、(伊藤左千夫 (2025)『野菊の墓 他七篇』東京: 岩波書店, pp. 124-125.)
2025年9月16日 (火)
- したがって読書によってものの書き方を学ぼうとしても、ただ自発的活動を促されるだけである。つまり読書は我々が駆使しうる天賦の才能の駆使を促すのである。だからこの読書の教えは、生まれながらの才がある場合にのみ意味をもつ。それを欠いていれば、我々は読書から生気に乏しい冷い手法だけを学んで、軽薄な模倣者になるにすぎない。(ショウペンハウエル (斎藤忍随 (訳) (1983))『読書について 他二篇』東京: 岩波書店, p. 130.)